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国語授業のあれこれ

アクティブ・ラーニングや教材研究のための書庫です

西洋文化の翻訳ということ

 他者とは理解できない存在。

 だからこそ、理解し合うことが必要。

 他者という言葉には、そういう逆説が内在しているように感じます。

 

 一方で、「よそ者」は排除の対象。

 (「まれびと」は歓迎されるんですけどね)

 私たちは理解しているという前提があって、理解していない人をよそ者とする。

 ひょっとすると、私たちが「他者」としている言葉は「よそ者」のことではないでしょうか。

 そう考えると「他者理解」「異文化理解」「多文化主義」という言葉を、私たちがどのように理解しているのか不安になります。

 

 論理的という言葉も、それがどういう作業なのかということです。

 三段論法とか、反駁とか、いろんな言葉がありますが、私は単純に「因果関係を説明すること」としています。

 ただ「因果関係」を説明するためには、主張、論拠、論拠の補強(事実の提示)などが必要ですし、主観を客観化すること、主体を客体にすること、対象を相対化すること、具体化して差異を見出すこと、抽象化して共通項を見出すこと・・・などの多くの作業が必要です。

 また、そもそも、こうした作業が「日本語」という言語にあったのか・・・それとも、以心伝心という言葉のとおり、私たちが日本語で論理的としている文章は、実は日本的価値観による主観に過ぎないのか・・・こうした検証が必要かもしれません。

 もし、枕草子源氏物語平家物語徒然草の文章が「日本語の原点」であるならば、そこに「論理性」を探してみるのもいいかもしれません。

 私の主観で言えば、上記の文章は、十分論理的と思います(笑)。

 ただし、論拠や事実が、それぞれの時代の価値観や暗黙知による場合、それを理解しないといけない・・・ということですね。ただ、清少納言紫式部兼好法師が「論理性」を意識していたとは思えないわけで、そこにあるのは、自分の感情・意図・考えを、それこそ「他者」に伝えるためにはどうしたらいいか・・・という工夫というか、そういう気持ちが、ああいう文章を作ったのではないかとも思います。

 

 そう考えると、論理性とは、感情的な違和感・思考的な矛盾によって立ち上がった「疑問・質問」に発し、それを分析することで得られる具体性や抽象性を整理し、社会現象などの事実と結びつけて問題提起する。それに対する、自分の思考・発想・感情というものを客体化・相対化することでその理由を説明する・・・ということになると、三角ロジック(トゥールミン)に到達することになります。

 

 日本文化には、日本文化と翻訳文化が混在しています。

 このあたり、整理してみたいです。