国語授業のあれこれ

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他者という感覚

 西洋の「社会」を、日本人は「世間」という尺度で感じている・・・という定番の言い方があります。

 であれば、西洋の「他者」を、日本人は「よそ者」という尺度で理解している・・・というのはどうでしょうか。

 

 一元論の根源には「神」という絶対者が存在します。

 そして、人間にとって「神」は他者です。

 人間は神ではなく、神になることはできず、神の意志・意図・言葉を理解することもできません。しかし、西洋では、「理解できない神の言葉」について理解しようとしました。

 預言者、キリストの弟子たち、そして聖職者と言われる人・・・やがてそれは「神学」という学問になったのです。つまり、西洋の学問とは、「わからないこと」について考えることから始まったわけで、しかも、正解を知っている神や、言葉を残した「キリスト」に「正解」を確認することはできないわけで、これは、つまり答えのない学びなんですね。

 ここに、西洋の価値観があります。

 ですから、よくある「どっちですか」「どうすればいいですか」という「正解を求める質問」は、割と日本人感覚的な言葉・・・と言えるでしょう。

 でも、本当の質問とは、そうではないってことですね。

 正解のない質問をする人とか、自分の発見した疑問を言葉にした人の方が尊敬される文化ってのは、ここにあるのでしょう。数学にあるみたいですけど、何とかの定理とか、問題を発見した人の名前は残っています(フェルマーとかね)。でも、確か最近、それを解いた人がいたみたいですけど、その人の名前は残ってないですね。

 問題提起をするってことが、実はとても重要で、そういう問いかけができるってことが、本物の学問への入り口ってのが西洋の価値観の一つだと思います。

 

 一方、私の知る限りの日本の教育現場では

  質問されると、怒られていると思う生徒

  質問されると、自分の意見を否定されたと感じる生徒

  質問すると、自分がバカなんじゃないかと思われると信じて黙っている生徒

  質問すると、先生が逆切れするんじゃないかと思って黙っている生徒

  受動的な思考に染まってしまって、疑問を持つことすらしなくなった生徒

 など、質問というキーワードでくくるだけで、こんな感じです。

 問題提起・・・ってのができなくなっているんですね。

 

 というわけで、評論文を読み解くには、筆者の問題提起に気付くことが重要ですし、自分も常に問題意識・問題提起を持っていることも大切です。

 また、このようなセンスが「推薦入試」「AO入試」で求められているわけで、だから「小論文」になるんですね。

 

 問題提起というワードで考えてみました。

 では、次回は「前提」について