国語授業のあれこれ

アクティブ・ラーニングや教材研究のための書庫です

思うこと

国語がわからない、苦手・・・という生徒の叫び・クレームが振り返りシートにあります。これにうまく対応して導くことができれば、生徒は国語ができる、得意になります。つまりこの叫びを生徒の発達段階だととらえれば、ここにトレーニング・マニュアルが出来上がります。

 

同様に、ALにおいては、人間関係の叫び・クレームもあります。

これもうまく対応すれば、コミュニケーション・マニュアルになります。

生徒が、何につまずき、何に困り、何が足りないのかを読み取っていくことですね。

 

ここまで1か月を整理すると

1.このままではいけないらしい

  ・本文をそのまま写す、抜き出すだけではだめらしい

  ・記述答案に、自分の考えを書いてはダメらしい

   ⇒自分の言葉を補って説明することが必要らしい

 

2.どうして解答例になるかわからない、

  ・解答例に近づかない

  ・先生の説明が欲しい

   ⇒傍線部だけを見ていて本文全体を読んで理解していない

    傍線部とその周辺というテクニック的な解法では足りないらしい

    本文全体を読み、論理的に理解しないといけないらしい

 

で、「2」が「今ここ」になります。

その他に、知識的な部分では、近代以前の価値観と、近代以降の価値観がまだわかっていないので、解答例に「近代」という言葉が必要な意味が理解できないとか、「近代」と「現代」の違いがわからないという質問があります。

これは、結構、深い疑問・質問だと思います。AL的な取り組みができる優秀系の生徒からの質問です。

これは、最終段落の演習終了後、少し講義で補います。

 

で、その講義なのですが、近代論の大枠でいくか、この単元のポイントの部分でいくか、ちょっと迷っています。ただ、私の中での結論は「幹」の説明でいくという新しい方向性で考えるならば、単元ポイントでいこうかと思っています。

近代論の大枠だと、近代以前の価値観から近代の価値観への流れと相違点が中心になります。しかし、単元の内容や現代社会の「今」を考えるならば、近代以前~近代~ポスト近代までいく必要があります。

これを、大枠で語ると、どうしても枝葉(といっても重要なのですが…)が増えますので、単元の幹で行こうと思います。

 

今考えている流れは

近代以前

 封建的価値観の時代

 社会的コンテクストがアイデンティティ

 身分制度、家父長制度、世襲制度、一元的価値観

 

近代

 自由社会の時代

 社会的コンテクストは封建的くびきへ

 個人の誕生

 自由・平等・博愛

 

近代の闇

 社会的コンテクストと個人の自由の混在

 ⇒アイデンティティ確立のために必要

 自由→能力のない者にとって地獄

 平等→能力のある者にとって地獄

 博愛→特別に愛されたいという欲望への飢餓感

 個人の自由の暴走→暴力・利己主義へ

 科学の暴走→戦争・環境問題へ

 

 近代とは自分でアイデンティティを確立する時代

 ・自分で自分を証明する必要   

 ・自分を他者に承認してもらう必要

 個人主義の実現 ⇔ 利己主義への転落

 

ポスト近代

 美しい個人主義の時代

 近代の二面性を理解した上で、その本当の意味・目的に沿って物事を進めることができる時代

 本当の自由、個人の実現

 封建的価値観に基づく倫理・道徳が必要でなくなる、新しい人間性の創造

 

ってなことを考えています

忘れないうちに

生徒のせいではないという発想から出発すること

 

前任校が、まぁ、その、あの、ははは、すごい進学校でした。

私より、あらゆる意味で素晴らしい生徒の集団であり、個々の集まりでした。

そんなわけで、何かあるとすると、それは教員の方に問題があるってことなんです。私のような人間には、それはそれは、もう、壮絶なプレッシャーとストレスの日々でした。でも、そこで学んだものは、本当に大きかったです。

 

今の学校の生徒についても、生徒のせいではない・・・という発想から出発したのが、今年のALです。

まだまだ試行錯誤の日々ですが、そこには、学問の「幹」の理解、教育の「幹」の意識が必要であり、そこからどう枝葉を伸ばしてゆくかに、生徒の可能性・伸びしろがあるということがわかってきました。

ALをやってみると、もちろん生徒を信じているのですが、やはり、決まった知識を一斉に与える場面、解説がないと理解できない場面というのはあるわけで、それを積み重ねていくと、10分程度の授業=講義でも、今までの全講義授業よりは、明確に知識の積み重ねが可能になっているような気がします。これが「幹」ってやつなのかもしれません。

 

確かに、導き方で生徒の理解は、本当に全然違います。

また、正解に至る道筋についても、その背景や価値観の部分でよく見えます。

 

短時間で正解にたどり着く生徒は、本文全体をつかんでいます。

なかなか正解にたどり着けない生徒、理解・納得できない生徒は、傍線部とその解答部分を探すだけに終始し、本文全体をつかんでいません。

で、後者のような生徒がうまれてしまうのは、教員側が解くテクニックとして、こことこことこことがポイント・・・という指導に終始し、本文の意味やその背景にある社会的現象・事象、哲学的思考、倫理的発想にいたらないから、「部分」だけをみて解く生徒ができあがるのではないでしょうか。

 

俯瞰的視野の必要性、ドローン的発想が求められています。

そういう話題が「幹」なのでしょう。

俯瞰的視野、論理的思考、他者に伝える表現は「意識」しないとできません。

日常生活は、身近なことを、感情的に、自分で受け止めるのですから。

この「スイッチ」を入れることを、そろそろ生徒に伝えてみようかと思います。

 

そういえばある生徒に聞かれました。

「おかあさんとも話していたのですけど、勉強できない人が東大に合格するって話がありますけど、そんなの違いますよね」

前任校の生徒たちを思い出すと、その努力・能力のすごさ、何よりも自らそういう環境を作ることができるチームワークに感動すら覚えます。

では、今の学校の生徒にそれは不可能なのか・・・というと、絶対無理とは断言できません。頑張れば東大に絶対に入れる・・・というほど現実は甘くはないことはよくわかっているつもりです。でも、こちらで必要な導きをして、彼らの能力を引き出すことができれば、不可能ではないということは言えるような気がします。

 

今のAL授業、毎時間の演習は、毎回定期テストを受験しているようなものです。

年に4回しか書かない答案を毎時間書いてその修正を行っています、毎時間。

これが年間で60回くらいあります。

1回の授業の尊さが身に沁みます。これを積み重ねて幹を太くすれば、どんな入試問題にも対応できます。

 

金曜日の授業で、単元テストを実施しました。

今まで協業的に行ってきた演習に、一人で立ち向かわなければならなくなったのですね。その時、何人かの生徒は、おそらくはかつてそうであったように死んでしまいました。テストの点数も低いですし、何よりも取り組みの姿勢がAL授業では見たことがないほど死んでいました(笑)。

 

これから必要かもしれないことは、協業的感覚をテストでも持ち続けることかもしれません。それがないと、模試や考査でAL授業で身に付けたものが発揮できないと思います。そーかー・・・ここが結果を出すためのポイントなんですね。

試されることへの嫌悪感、不信感、自己喪失感・・・そういうものにも対応してゆくこと、これがソーシャルスキルやマインドセットとして必要になる・・・なかなか大変です。やはりAL深いです。

 

 

 

このままではいけないらしいと気づけるのはなぜか??

未来が見えた時ですね。

ふとそう思ったので、忘れないうちに・・・。

 

現在の生徒の段階は、このままでいけないらしいです。

それに気付けた生徒と、気づけない生徒

或いは、気づき認めることができる生徒と、気づいても認めることができない生徒

その差異は、未来への意識なのかも。

ただ、気づいてくれれば、あとは生徒内の良い意味での同調圧力で、認めざるを得なくなり、変化が始まると思います。

 

そうか、未来の見せ方なんですね。

未来が見えている人間は、今、どうすればいいかがわかる。

見えていない生徒は、自分ではわからないので依存するようになる。

でも、生徒は生徒なりに日々「学習」をしているはずです。その学習に「未来」が入っていないのかもしれません。

逆に、自分の未来を確保してしまった人間、つまり早く大学に受かってしまった人間は、そのために逆に未来を喪失するのかもしれません。つまり「合格したからこれでいいんだ」になってしまうのです。

でも、その先が重要なんですけどね・・・。

 

今、未来が大きく変わりつつあります。

そこには、人口減と言う社会変化と、人間の機能を実現・代替することが可能になる科学の進歩があります。人口減をAIで補う・・・という発想は、現状維持の発想にすぎません。

人口減やAIを前提にした「新しい社会」「新しい価値観」の創造が必要なんですよね。そこには、「人間にしかできないこと」が存在します。

ALは、人間にしかできないことのシュミレーションです。

この人間にしかできないことの中に、未来の創造、協業があると思っています。

さらに言えば、「意味を理解すること」も人間にしかできないはずです。

ロボットみたいな人・・・という言葉は、意味を無視して実行するという意味ですからね。

未来、創造、協業、共感・・・これらは「意味を理解」して始めて成立するものです。

これを伝えることが大人の役目であり、教員の導きになるかもしれません。

 

AIは愛を理解できるか。

機械が作ったご飯はおいしいか。

なぜ審判は人間がやった方がいいのか。

教育は、人間がやった方がいいのか。

人間が人間であるためには何が必要なのか。

それは「意味を理解すること」なのかもしれません。

或いは、「意味のあることをすること」が大事なのかもしれません。

少なくとも、意味は理解はできないくても、意味がありそうだ・・・という意識をもたせるくらいの内容を準備し続けることが必要です。

 

結局、人間がキレるのは、意味わかんない・・・ってことなのかもしれません。

幸い、年をとって、どんなことにも意味があることがわかってきましたので、それが、私の中の苦痛を取り去ってくれているのかな・・・と思います。

でも、意味を与えるのではなく、意味を考えさせる、自分なりの意味をもたせるように導く、全員共通の意味を強制しない・・・ことは大事かもしれません。

入試でどうこう・・ではなく、日本の未来と生徒自身の未来のために、意味のあることをし続けることが、今の大人には大事なんですね。

 

その時、生徒は「このままではいけない」と気付けるのかもしれません。

そして、思考の起点が、過去から未来へ変わるのかもしれません。

ここが大事なところなんですね。

 

人間にしかできない能力を磨く。

 

下流志向?

 働かないことや学習しないことを誇りに思う新しいメンタリティー(考え方)のこと。内田樹が『下流志向』(講談社、2007年)で命名した。近年、社会的格差や若い世代の労働意欲の低下を問題視する議論が盛んだが、これまでの議論との違いは、学習しないことや労働しないことを気にせず、むしろ誇りに思うメンタリティーが出現したとする点である。内田によると、その背景には「自己決定」と「等価交換」を過大視する風潮がある。つまり、自分で決めたことならばどんな内容でも価値があると見なすことで、学習しなくても自信を持つことができる。また、不快やコストに対して直接の見返りがあること(等価交換)を当然視するために、一見無駄と思えることはあえて我慢して行おうとしなくなる、というのである。実証的に裏付けられた議論ではないが、例えば近年の教育の実学志向や資格志向には、等価交換を求める傾向が表れているように見える。しかし人生も社会も功利性だけで成り立ってはおらず、自己が決定したことならば何にでも価値があるというわけではない。贈与や他者への介入など無駄に見えるコストも必要である。これまで親密圏が提供してきたこれらのコストを、親密圏の範囲が縮小するなか、どのような形で再生するのかが問われている。

(野口勝三 京都精華大学助教授 / 2008年)

知恵蔵より引用

  確かに生徒の一部にこのような傾向を見ることができます。

 勉強なんかしないぜ、授業って何・・・というアピールがあります(笑)

 この教科、この勉強は受験に必要ない、嫌い、つまり無駄だからやらないと決めているという思考もあります。つまり不快を我慢してもその見返りはないんだからやらない。それを強制する学校や先生はむかつくってことですね。

 自分の知識や経験を人に伝えることを怖がる、或いはそういう人を悪く言うのは、親密圏の縮小ということだと思います。ですから、親密圏内と圏外とで、極端に人間関係が変わる。当然、生徒はクラス内、同性内で最低限度の親密圏内に自分がいることをアピールする必要があるわけで、ここから自然と同調圧力が生まれる・・・。

 一言で言えば「下流志向的アピールに対する同調圧力がかかっている」ということでしょう。

 では、生徒の下流志向を応援している、支えている、導いている存在とは?? ということになります。

 誰かを敵にしないとまとまれない幼さって何?? ってことになります。

 負の同調圧力に苦しんでないの?  悩んでいないの?? って思います。

 そして、下流志向、敵、同調圧力から生徒を解放するためにはどうしたらいいのか??と思います。

 特に学習について、その具体的方策はとも思います。

 

 とここまで書いて思ったのは、この学校の生徒は、結構、教員への相談や質問ってのはあるんです。逆に言えば、依存度は高いんです。

 それは結局、生徒間で発生した問題、自分に発生した問題に対して、生徒同士で解決することができないか、そういう発想がないことを意味するのかもしれません。

 あるいは、同級生には弱みを見せることができない、困った時に相談できない・・・そういう「孤独」が深いのかもしません。つまり、本当に親しい少数にしか言えない。なぜならば、同調圧力に抵触するような発言があった場合は、総攻撃が待っているから、そういう思いと言うか、確信があるのではないかと思います。

 

 おそらく、本当にそういう攻撃をする奴は、いないか、いても少数だと思いますが、そこはネット社会で育ってきた現代の高校生です。やはり極端な怯えを感じるのではないでしょうか。つまりパノプティコン社会の構図がそこに見え隠れします。

 では、教員はそこでなぜ何もできないのか・・・それはシノプティコン状態にあるからですね。つまりかつて生徒を一望で監視していた教員は、逆に生徒・保護者・世間という多数の眼から監視される存在になってしまったのです。

 そうか、下流志向の生徒は、監視することには熱心です。枝葉にこだわりますね。

 そして一致団結して教員の一挙手一投足を監視し、勉強しないでいい理由を見つけ出します。それが、クラスの空気を支配するという構図なのかもしれません。

 

 これを、アクティブ・ラーニングは破ることができるか・・・ということですね。

 それはわかりませんが、同調圧力をこえた学びの場、枝葉ではなく幹の大切さ、学び以外の生活の場での過ちの指摘は可能です。アクティブ・ラーニングは方法であると同時に、思想というか、精神というか、未来のあるべき姿を示唆するものですが、それはアクティブではない・・・という指摘で返すことはできます。

 そして、人間関係における同調圧力をこえたところに、文字通り「正解」があるわけで、これを求めるためには、同調圧力は邪魔になります。

 賢い生徒は、同調圧力をこえて動くことができます。その輪を大きくしてゆくしかけをつくる、あるいは教員の態度・姿勢・声掛け・価値観で誘導してゆく、そういうことが勤務校におけるアクティブ・ラーニングの課題、私の課題ということなのかもしれません。

 

 生徒が苦しんでいるのは同調圧力、それを支援しているのは下流志向によるパノプティコンと教員に対するシノプティコン

 となると「フラットな人間関係」「良い意味で場面ごとの人間関係の使い分け」などを構築することが、私自身に必要ですね。

 う~ん。少しスッキリしたかも。

 

 

 

今週を振り返って

 歓迎会などの公式飲み会があったりで、先生方の悩みやぼやきを聞くこともあります。どの先生も間違いなく生徒への愛情も、仕事への熱意もあります。そして私も同じようにぼやいていた時期がありました。

 ALを始めると、クラスの人間関係も、個々の人間関係構築力もよく見えます(笑)。失敗にどう対応するか、情報収集をどうしているか、自立度や依存度など、いろいろなものが本当によく見えてきます。となると「ぼやきの問題点」は、生徒個々の問題であって、クラス全体や集団の問題ではないことがわかってきます。

 私が取り入れているAL授業スタイルは、問題演習が早くできた生徒から模範解答を見て自己採点に入ります。自己採点が終わった人が、その後演習が終わった生徒の採点と解説をします。つまり、できる人がだんだん増えていくシステムです。

 また、生徒間、生徒同士で自分の答案を比べます。友人と違う・・・というのは、生徒にとって大きな驚きだったり、恐怖だったりするみたいです。でも、そこで、どうも自分はこれではいけないらしい・・・という気づきが生まれます。

 つまり、生徒対教員という図式ではなく、生徒対生徒の関係性になります。

 ここで教員の役割は、本気で学習に取り組んでいる生徒が自然とクラスの中心になる、認め合う集団に導くということになります。

 いずれ、頑張っている生徒の成長が見えるという点で、教員の精神安定剤になります(笑)。

 

 で、今日ちょっと生徒とお話することができました。

 私の疑問を聞いてもらって生徒目線からどう見えるか、いろいろ聞いてみると・・・

 ・敵をつくらないとまとまることができない

 ・生徒内、特に同性内で、強い同調圧力がある

 ・夢や望みを語ることはタブー。いわゆる「下流志向」がある。

 ということのようです。

 なるほど・・・と思いました。

 確かに、学習意欲が高い前向きな生徒が、日常の友人とは異なる集団となって集まり始めています。そうでない人は、そうでない人で集まりつつあります。

 今は、そういう段階なのかもしれません。授業の時だけでも同調圧力から離れ、学習に集中したいのかもしれません。今は、それでもいいかなとも思います。

 これではいけないらしいと気づく

 模範解答に近づこうと試行錯誤する

 こういうことなんだ・・・と納得する

 という集団をたくさんつくればいいんですよね。ぼやく前に(笑)。

 ・・・なんか、思うことはたくさんあるんですけど、うまく言葉にできなかった・・・

 成長を実感できる生徒の放つオーラに期待しようと思います。

 みんな成長しているよということを、結果で全生徒に示してゆくことをこれから進めようと思います。

   

はじめてALについて語ってみた

 ALは、教員も生徒も慣れが必要みたいです。

 一番うまくいっている2つのクラスは、授業回数が一番多いクラス。

 一番難しい感じのクラスは、授業回数が一番少ないクラス。

 その差は3~4回分。

 1週間分以上の差。

 

 たまたまそのクラスが、学力的に高いクラスと低めのクラスだったので、「ALも毛局学力差に負けるのか???」と一瞬思いましたが、どうも、慣れの差みたいです。

 で、一番難しい感じのクラスで、一言・・・

 「ALは慣れが必要。学校行事と時間割の関係で、このクラスは授業が少ない。

  で、このクラスより約3時間多いクラスでは、例えば、模範解答に近い答案を作る

  生徒が10人くらい出てきたりり、近所で答案を見せ合うと、最初、全く違った

  それぞれの答案が、近づいてきたりしている。」

 「このクラスの現段階は、どうもこのままでいけないらしい・・・という気づき

  の段階にあるみたいです。先行している他のクラスの振り返りシートと

  このクラスの振り返りシートとは、この点で一致しています。

 「最初の不安を感じる時期ですね。でも、ここをみんなで越えていけば、いいんです」

 みたいなことをさらっと言ってスタート。

 新しい段落の箇所ですが、一切の説明なし。

 それでも、今日は、良い感じでした。深まる個人やグループが増えてきました。

 

 特に、解くスピードが壮絶に早くなった生徒が3人ほど。

 全体に解くスピードは上昇しているのですが、このクラスでも、それが出てきました。コツをつかみ始めたみたいです。

 指示語の指示内容を説明する問題シリーズを継続して行っていきたいと思います。

 本文に基づいて説明する問題のトレーニングとして、ここの生徒にはとてもあっているみたいです。

 

 今日のトピック

 生徒「定期考査では、模範解答おぼえて書けばいいんですよね」

 私 「おっしゃっている意味がわかりません」

 生徒「授業で演習している問題が、考査で出るんじゃないんですか」

 私 「考査の問題のことはまだ考えていません。

    でも、授業で言っている通り、なぜこの模範解答になるかを理解することが

    大切なので、解答にいたる経過、道筋、理由を理解していれば解ける問題を

    出すつもりです。

    現代文は、暗記教科ではありません。」

 

 こういうことを、粘り強く、少しずつ、毎回、言い続けることが必要なんですよね。

 模範解答を暗記しなくても、先行クラスではすでに模範解答に近い答案を作る生徒が10人くらいいるわけで、であれば、模範解答の暗記はすでに無意味です。

 ついでに言えば、考査だけでなく、模試、本番の入試でも、それは可能なんです。

 でも、模範解答の暗記で考査の点数を稼ぐという趣旨で暗記をするのは、たぶん、思考力の成長ではない。暗記するなら、トゥールミン・ロジックの方です。模範解答ではありません。

 でも、そうやって高校3年生まできたんだろうなぁ。

 

 

 

1か月の振り返り

 学校の取り組みとして小論文の添削なども継続的に行われています。

 先生方からうかがうのは、要約も小論文も、本文の切り貼りに過ぎない文章が多いということ、自分の考えや意見が入っていないということなどです。

 

 今、生徒の段階は「いまのままではどうもいけないらしい」です。

 本文の丸写しではなく、自分で言葉を補ったり、単語を言い換えたり、キーワードを中心に本文を構成するなど、再構築が必要なことがわかったみたいです。

 ここからは、その実践段階なのですね。

 

 自分の頭で考えること、

 自分の頭と人の頭をつなげること、

 すると、個人単位ではたどり着けない答案・説明は可能になる。

 それは共有されているものなので、共有者全員が成長できる。

 

   自分が説明できるかどうかは、誰かに説明を聞いてもらわなければわからない。

 

 この教室の中にはもっと良い答案、説明、表現があるかもしれない。

 仲間とかかわった方が、自分が高まる

 だから「みんなができるようになることを、みんなで目指す」ことが大切。

 

 完全にわかっている一人の説明を求めることもできる。

 完全にわかっている一人がいないならば、みんなの「わかる」を集めて完全にわかっている答案や説明を作ればいい。

 

 それが、「いまのままではいけないらしい」の次のステージにあるものです。