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国語授業のあれこれ

アクティブ・ラーニングや教材研究のための書庫です

現代文学理論講座を読む

 筆者の主張・・・と教壇から叫んでいますが、評論はともかく、小説でそれでいいのか・・・という思いは強いです。

 作家論、作品論の流れの中で、小説がどのように構想され、書かれていったかを、作者の実人生と重ねて解釈する方法があります。

 一方で、作者の意図を超え、作品に新しい読み、解釈、視点を与えることもできます。

 ただ、作者の意図・・・というのは正解のない問なわけで、であれば・・・ということで、私自身は、作者の生い立ちから作品のモチーフを引っ張り出したり、心理学を応用したり、倫理をあてはめたりしていました。

 でも、なんか違うという思いはありましたし、まぁ、指導書通りにやらないと、考査の時、生徒が困る、先生によって正解が異なるのは、学校的によろしくないってことなんですね。

 

 この本の中の「言語行為論」が面白く、いろいろ腑に落ちました。

 なるほどね、難関大学の記述問題は、ここからできるいるのね(笑)

 であれば、理論通りだし、その積み重ねで正解も出るわけです。

 やはり、作品そのものの理解があっての、アクティブラーニングなわけで、さらに言えば、理論あって、演習が成立するわけで、テクニックや方法論だけでなく、本質をもっと勉強しないとそこに至らないという考えは、間違っていないみたいです。

 

 というわけで、もう一回読み直して、勉強します。

 

トゥールミン・ロジックを小説解法に応用する

登場人物の心理分析です。

センター試験の小説問題の傍線部の多くは、登場人物の「セリフ」にあります。

そのセリフに内在する感情と、感情が言葉になる価値観・・・という風に考えていました。

 

ある高校につとめていたとき、ベテランの先生の「小説は、評論のようにすべて書かれているわけではない。何かが省略されている。それを想像することが小説解法」という言葉にヒントをもらいました。

また、ある予備校の夏期講習を受講したとき(自己研修です(笑))、小説の登場人物を「背景」「内面」「言動」で整理する先生に出会いました。

 

この二つの経験をまとめ、私は「小説解法は、背景・内面・言動から」「ただし、三つの部品はすべてそろっていないので、二つの部品から残り一つを想像・類推・推定するのが小説解法」としてみました。

 

これを、トゥールミンの「data、claim、warrant」の構造にあてはめてみただけなんですけどね。

 

いまのところ、矛盾なく進んでいます。

今までの苦労があったから、これがはまる・・・と自分を慰め、励ましつつ、でもいつか行き詰まる日が来て、また乗り越えないといけないんだろうな・・・ということも覚悟しつつ、日々を送っています。

2月に、いろんな勉強会に参加します。

 

やってみました

 まだまだ、アクティブラーニングにはほど遠いのですが、入試問題演習を論理解法でやってみました。

 トゥルーミン・ロジックを使って、内容把握問題を解いてみました。

 確かに、生徒の熱が高い。手応えがある。

 私もある程度満足できる。

 パワーポイントを使用したため、説明は少なく、しかし正解に至る道筋を簡潔に示すことができる。

 現状は、授業の最初にプリント演習を行って、答え合わせという形

 これを、反転授業にしてみる。つまり、ロジックの理解・活用を各自で行う。

 授業では、それに基づいて(特にロジックの活用で解ける演習問題の作製が必要か)問題演習を行う。その際、ロジックの活用を重視する。数学で言う「式を立てること」を重視する。

 ①自宅で理論を理解

 ②授業の最初に演習(本文中の正解部分を見つける)

 ③授業の後半で答え合わせ

というパターンが一つ。

 

 もう一つは

 ①授業の最初に、問題をロジックにあてはめる方法を解説。

 ②それに基づいて演習(本文中の正解部分を見つける)

 ③自己採点と確認テスト

というパターン。

 

 肝心なのは、ここから「記述答案の作成」に発展してゆくこと。

 ①授業の最初に、設問パターンと解答構文にあてはめることを解説。

 ②演習(記述答案の作成)

 ③自己採点と確認テスト

 

 そうか・・・こうすればいいんだ(笑)。

 もっと早く気がつけ自分!

 どうしよう・・・。とりあえず選択の現代文Aの小説演習で、この形を試してみよう。次の現代文Aは、金曜日。

 ちょっと頑張ってみます。少し、先が見えてきた感じです。

 やはり、やってみることが大事ですね。

 

 

 

西洋文化の翻訳ということ

 他者とは理解できない存在。

 だからこそ、理解し合うことが必要。

 他者という言葉には、そういう逆説が内在しているように感じます。

 

 一方で、「よそ者」は排除の対象。

 (「まれびと」は歓迎されるんですけどね)

 私たちは理解しているという前提があって、理解していない人をよそ者とする。

 ひょっとすると、私たちが「他者」としている言葉は「よそ者」のことではないでしょうか。

 そう考えると「他者理解」「異文化理解」「多文化主義」という言葉を、私たちがどのように理解しているのか不安になります。

 

 論理的という言葉も、それがどういう作業なのかということです。

 三段論法とか、反駁とか、いろんな言葉がありますが、私は単純に「因果関係を説明すること」としています。

 ただ「因果関係」を説明するためには、主張、論拠、論拠の補強(事実の提示)などが必要ですし、主観を客観化すること、主体を客体にすること、対象を相対化すること、具体化して差異を見出すこと、抽象化して共通項を見出すこと・・・などの多くの作業が必要です。

 また、そもそも、こうした作業が「日本語」という言語にあったのか・・・それとも、以心伝心という言葉のとおり、私たちが日本語で論理的としている文章は、実は日本的価値観による主観に過ぎないのか・・・こうした検証が必要かもしれません。

 もし、枕草子源氏物語平家物語徒然草の文章が「日本語の原点」であるならば、そこに「論理性」を探してみるのもいいかもしれません。

 私の主観で言えば、上記の文章は、十分論理的と思います(笑)。

 ただし、論拠や事実が、それぞれの時代の価値観や暗黙知による場合、それを理解しないといけない・・・ということですね。ただ、清少納言紫式部兼好法師が「論理性」を意識していたとは思えないわけで、そこにあるのは、自分の感情・意図・考えを、それこそ「他者」に伝えるためにはどうしたらいいか・・・という工夫というか、そういう気持ちが、ああいう文章を作ったのではないかとも思います。

 

 そう考えると、論理性とは、感情的な違和感・思考的な矛盾によって立ち上がった「疑問・質問」に発し、それを分析することで得られる具体性や抽象性を整理し、社会現象などの事実と結びつけて問題提起する。それに対する、自分の思考・発想・感情というものを客体化・相対化することでその理由を説明する・・・ということになると、三角ロジック(トゥールミン)に到達することになります。

 

 日本文化には、日本文化と翻訳文化が混在しています。

 このあたり、整理してみたいです。

他者という感覚

 西洋の「社会」を、日本人は「世間」という尺度で感じている・・・という定番の言い方があります。

 であれば、西洋の「他者」を、日本人は「よそ者」という尺度で理解している・・・というのはどうでしょうか。

 

 一元論の根源には「神」という絶対者が存在します。

 そして、人間にとって「神」は他者です。

 人間は神ではなく、神になることはできず、神の意志・意図・言葉を理解することもできません。しかし、西洋では、「理解できない神の言葉」について理解しようとしました。

 預言者、キリストの弟子たち、そして聖職者と言われる人・・・やがてそれは「神学」という学問になったのです。つまり、西洋の学問とは、「わからないこと」について考えることから始まったわけで、しかも、正解を知っている神や、言葉を残した「キリスト」に「正解」を確認することはできないわけで、これは、つまり答えのない学びなんですね。

 ここに、西洋の価値観があります。

 ですから、よくある「どっちですか」「どうすればいいですか」という「正解を求める質問」は、割と日本人感覚的な言葉・・・と言えるでしょう。

 でも、本当の質問とは、そうではないってことですね。

 正解のない質問をする人とか、自分の発見した疑問を言葉にした人の方が尊敬される文化ってのは、ここにあるのでしょう。数学にあるみたいですけど、何とかの定理とか、問題を発見した人の名前は残っています(フェルマーとかね)。でも、確か最近、それを解いた人がいたみたいですけど、その人の名前は残ってないですね。

 問題提起をするってことが、実はとても重要で、そういう問いかけができるってことが、本物の学問への入り口ってのが西洋の価値観の一つだと思います。

 

 一方、私の知る限りの日本の教育現場では

  質問されると、怒られていると思う生徒

  質問されると、自分の意見を否定されたと感じる生徒

  質問すると、自分がバカなんじゃないかと思われると信じて黙っている生徒

  質問すると、先生が逆切れするんじゃないかと思って黙っている生徒

  受動的な思考に染まってしまって、疑問を持つことすらしなくなった生徒

 など、質問というキーワードでくくるだけで、こんな感じです。

 問題提起・・・ってのができなくなっているんですね。

 

 というわけで、評論文を読み解くには、筆者の問題提起に気付くことが重要ですし、自分も常に問題意識・問題提起を持っていることも大切です。

 また、このようなセンスが「推薦入試」「AO入試」で求められているわけで、だから「小論文」になるんですね。

 

 問題提起というワードで考えてみました。

 では、次回は「前提」について

 

 

 

西洋の価値観が・・・

 日本の近代は、西洋化でもあることは良く言われます。

 もし、それが本当ならば、私たちは、西洋の価値観に基づいて評論文を読み直す必要があります。

 国語の教科書に掲載されている、あるいは受験で出題される評論文の作者は、それぞれ、ヨーロッパの文学や思想を背景にもっています。イギリス・ドイツ・フランス・ロシア・・・などなど、いろいろありますよね。

 で、例えばこれらの国は、カトリック(フランス)、プロテスタント(ドイツ)、英国国教会(イギリス)、東方正教会(ロシア)・・・というわけで、「キリスト教」で単純に一括りにするわけにもいきません。

 神・宗教に対する関わり方・・・が、各国に「近代」にも影響を与えていると思います。例えば「自由」「平等」「博愛」とありますが、フランスは「平等」を大切にする、アメリカは「自由」を重要に思う・・・と聞いたことがあります。

 昨今、イスラム過激派のテロがフランス圏で発生するのは、フランスが「平等」を守るために行っていることが、イスラム過激派には「自分たちだけが・・・」という思いを抱かせるからかもしれません。

 フランスでは「学校に宗教を持ち込まない」としているそうです。これが「フランスの平等」の発想なんですね。カトリック国フランスでは、教育の場で十字架(のついたネックレス)を身に付けるのダメなんですね。これは、個人の信仰の自由を守るための逆説的措置なのでしょう。ですから、イスラムの人々も、その衣装で登校することができないのです。しかし、イスラムの戒律では、それは、やっぱりありえないわけで、そもそも「信仰の自由」ってことが、イスラム過激派には許容できないことかもしれないわけで、そうなると、フランス圏でテロが起きてしまうと考えることができます。

 つまり、近代西洋、西洋キリスト教の価値観に基づけば「平等の国フランス」で、テロはないはずですよね。

 しかし、イスラムの価値観からすれば、イスラムの戒律に最も理解のない国フランスになるわけで、こういう価値観のすれ違い、二面性が、まさに近代なわけです。

 では、どうしたらいいか・・・というのが、現代社会の問題・闇・論点なわけです。    平等は近代・西洋・キリスト教の価値観でしかない。そして、地球を単位とした多数決を取れば、近代西洋は負けるわけで、でも、平等は間違った発想ではないわけで、というか、平等がダメなら、封建に戻ってしまうわけで、そういうわけにはいかないので、では、どうすれば・・・ってことになるのだと思います。

 つまり、平等を見直す、イスラムの価値観を正しく理解する・・・ってことになるのだと思います。これを、未来を基準に考えていく・・・そういうセンスが求められているってことなんだと思っています。

 話が広がりましたが、そんなこんなで、日本は西洋を学びながら現在にいたったわけで、そして、日本の知識人にとって、西洋を理解するということは、非常に困難なこと、コンプレックスを感じることだったと思います(少なくとも、今の50代以上は、そうだと思います。小澤征爾が、自らの生涯を「日本人が西洋音楽を理解できるかどうかの壮大な実験」と言うように)。

 また、西洋を学び理解する過程で、日本との比較という発想があり、そこから日本文化の気づきもあったはずです。

 このような大きなストーリーがあって、近代評論がある・・・そういう発想があってもいいかなと考えています。

 

はじめに

 アクティブ・ラーニングについて話題の多い昨今、私なりに試みてみましたが、思うようにはいきません。

 だからといって、ALを否定や非難するつもりはありません。

 単純に言えば、私の理解不足、力不足に尽きるのです。

 ただ「授業」というものについて感じていた長年の疑問や課題の解決がそこにあり、これからの生徒や時代に必要なものであることは間違いないと思うのです。

 個人的には、私自身が「AL」を実施するために必要なのは、私自身の勉強、つまり教科の力、国語の力だと感じました。

 それを、まとめていくために、勉強や発想、考えの書庫としてここをつくってみました。

 ここは現代文中心でと考えています。

 私の中では

 1、東洋哲学、西洋哲学のはじまりから、近代思想(構造主義)までの流れ

 2、ポスト構造主義の発想(未来への発想)

 3、論理思考からの読解

 を三本柱として考えています。

 というわけで、これから、少しずつ、記録していこうと思います。